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石田三成は徳川家康の暗殺に失敗、逆に家康が三成を暗殺から救い勝負あり

   

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1598年豊臣秀吉が62才で死去した時、徳川家康は56才、偶然にも家康が死去(73才)した1616年、石田三成が生きていれば56才、秀頼は23才です。三成とそのスタッフが時を待った家康に倣えば豊臣秀頼の時代を十分再興できたチャンスがあったと思えます。

何度も大河ドラマ等で取り上げられた石田三成のイメージは悪役が多いのですが、決して悪い人間ではなく実直すぎた、今回再考してみて「だから、家康に負けたのか」と思わされました。ご紹介します。2016/08/22

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★石田三成のプロフィール★

●1560年石田三成誕生●

★(1歳)1560年 近江国(滋賀)の土豪、石田正継の次子として誕生。この年、秀吉は1537年生まれなので23才約2回り(親子程)年上。対する徳川家康は1542年末の生まれなので約17才約1回り半年上(叔父・甥)の様な年齢差です。この三人の年齢差は非常に大事です。誕生の時にはその事を気づく事はあり得ないことですが三成が40才で佐和山城に蟄居した頃、年齢差を悟れば…

●1574年秀吉は三成15才の才能を発掘・重用、三成は天才軍師に心粋、されど10年間で三成には身に付かず●

(15歳)1574年 近江国長浜城主だった羽柴(豊臣)秀吉との出会いで接待『三杯のお茶』(秀吉の喉の渇きを癒やす為にぬるめのお茶から3段回に温度を上げて提供した)で三成の知恵深さを知り、秀吉はその後重用。兄、石田正澄もともに仕える【秀吉の才能の一つは有能な人材発掘能力です】

★(18歳)1577年 秀吉の中国毛利攻め、★(23歳)1583年6月2日本能寺の変(織田信長49歳自害)、その11日後の6月13日山崎の合戦(明智光秀55才死亡)に従軍1583年(24歳) 賤ヶ岳の戦(織田内の宿敵派閥の長、柴田勝家)に参加し一番槍をつけたことなどから、石田父子は共に近江水口城主、大名に。【三成は秀吉の神がかった戦略・作戦・戦術を約10年間も身近に味わい、秀吉に親父様(おやじさま)と浸透し運命を共にしたこの時代が一番幸せな時だった。でも三成自身は秀吉の人心術と戦勝法は身につけられず人徳と戦いは苦手であり、晩年それが証明されて短命となってしまう】

★(26歳)1585年豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔(じゅうごいいか、じぶのしょうすけ)に叙任。

●名奉行,五奉行時代(三成27才~37才の10年間で官僚的な才能開花)●

(27才)1586年、秀吉の命により上洛した越後国の上杉景勝と秀吉の間を斡旋。堺町奉行に。
(28才1587年、秀吉の九州攻めの後、博多町奉行となり町の再興に貢献。
(29才)1588年、薩摩国の島津義久と秀吉の間を斡旋。筒井家から出奔した島左近を家臣に迎える。
(31才)1590年、秀吉の小田原城攻めの際、武蔵国忍城の水攻めを行うが失敗。常陸国の佐竹義宣と秀吉の間を斡旋。奥州仕置で、検地奉行を務める。
(33才)1592年、文禄の役(朝鮮出兵)では朝鮮総奉行に。近江国佐和山城主に。(19万4千石)
(34才)1593年、五奉行制が敷かれると、そのひとりに。兄の石田正澄が堺奉行に
(35才)1594年、島津家の領土を検地。佐竹家の領土を検地。
(36才)1595年、関白豊臣秀次を糾問。
(37才)1596年、京都奉行に。この頃、領内に十三箇条掟書、九箇条掟書を発布。豊臣秀吉の命で、キリシタンを弾圧。

●秀吉の死で家康は天下取りに動きだすと三成は我慢できず、対抗する戦略も不十分に真っ向対決、逃げ場なし●

(39才) 1598年、豊臣秀吉死没。博多に赴き、朝鮮からの帰還者を迎える。

(40才)1599年、徳川家康が無断で他家と婚姻関係をした事を前田利家らとともに糾弾。しかし家康は人心を掴んで誰も家康を正面から糾弾できず。

豊臣家の保護者、前田利家の死没により、三成は以前から恨みを買っていた豊臣側の加藤清正や福島正則ら七将から襲撃されるようになるが救出される。徳川家康この騒動を裁定して三成は佐和山城へ向かい蟄居。

(41才)1600年、家康の専横に我慢できず、会津の上杉景勝(長尾顕景)直江兼続と連絡を取り合い、親友大谷吉継を説き伏せて味方につけ、家康打倒に立ち上がる。 (西軍の総大将として担がれたのは毛利輝元であったが、首謀者は明らかに三成であった)

関ヶ原の戦では西軍有利とされていたたが、小早川秀秋(秀吉の妻寧の兄の子:秀吉の甥)の裏切りなどで壊滅状態となり大敗。

田中吉政、小西行長,、安国寺恵瓊らとともに六条河原で斬首、三成享年41才余りにも早い死別でした。

秀吉亡き後、託された豊臣秀頼を中心にした天下を実現する為に命を惜しまず邁進する前に立ちはだかったのが大大名徳川家康でした。彼はなぜ豊臣秀頼を徳川家康より守る切れなかったのでしょうか?三成は秀吉が惚れ込む知恵と真面目で全権を任せられた忠誠心の厚き男でしたが、しかし余りにも正直ものでした。

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★まとめ★家康は幼少時の人質経験で心して時を待つ重要性を実感、かたや三成には絶対の後ろ盾が

石田三成は豊臣秀吉より嫡子秀頼の表向き後継人が徳川家康に対して実質後継人として期待され自覚していました。しかし三成は人徳に乏しく、豊臣家臣の加藤清正や福島正則ら七将から殺されるほど憎まれ、更に秀吉の正妻寧からも疎まれるような人心術に赤点が付くキャリヤ行政マンタイプ
真面目で不正・不義は縁遠いが人間味に欠けて、回りから好かれない人だった。三成の敗因、自分の欠点(人徳不足と戦略に弱い)を自覚できなかったことです。知っていれば関ヶ原の戦いはやらなかった。味方の裏切りで負け、負けた時の対策は準備・予定になく、そもそも大戦のトップで勝った経験がなかった。

三成が家康に反旗を翻し、失敗・挫折して熟慮でき、すべきであったのが佐和山城での蟄居の時です。家康に勝つにはどうすべきか?本来は仲間であるべき連中加藤清正らから命を狙われて助けてくれたのが本来の敵、家康これでは勝てるはずがない家康にと。自分の実力のなさに目覚め、検挙に真田信繁らの意見を聞き入れて作戦を立て直すべきだった。さもなくば100戦練磨の家康に勝てるはずがない。

家康の寿命が終わりに近づくまでの約10年間を主君豊臣秀頼を賢明に守り、豊臣陣営が一体化して時を待てば、挽回のチャンスは十分にあったと思います。家康は小大名の嫡子に生まれながらも6才~12才まで父親の指示で人質となり、何時も死と隣りあわせました。その時からは身につけた事は生き残るが勝ち、価値がある。かたや三成は家康の行動に我慢できず人徳と勝利の戦略を必要な苦手な分野で掛けに出てやっぱり負けた。秀吉に見出されてからの人生はバラ色?15才~39才まで絶対的天下人が味方だった、家康に比べて苦労・苦悶・忍耐心が足りなかった様に思えます。  完

 

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