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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3大英勇の性格と生涯の因果関係は?

   

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日本史における3大英勇と言えば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人を挙げる方が多いです。

なぜか、それは3人共長く続いた戦国の世を統一した立役者であり、その能力が他を圧倒していながらこの3人はほぼ同時代を行きた故のライバルであり比較しやすく類似点と異なる点がとても興味深いのでこれまでに大河ドラマ等に何十回も取り上げられた国民的英雄3人です。

以上の観点からこの三者を生い立ち、性格そして生涯を比較してみたいと思います。そこには現代人が忘れかけている無心に生きた人々の叫び、強さ、願い等を紹介したいと思います。

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◆三人のお生い立ちみる三通りの幼少期・青年期◆

3人の誕生日と没年

①織田信長:1534年(天文 3年) 6月23日~1582年(49才)
②豊臣秀吉:1537年(天文 6年) 2月 6日~1603年(62才)
③徳川家康:1542年(天文11年)12月26日~1616年(73才)

①織田信長:1534年、尾張の若君として生まれ育ちました。出産順位は3男ながら母が正妻だったので嫡子として扱われましたが、幼少より奇行・奇抜な言動が目立ち、よく町民の子供達とも遊んだ、これを人々は「尾張の大うつけ」とうわさしました。
ところが1551年18才の時に父が急死したので急遽、父の後を継ぎましたがうつけに変わりがなかったので教育係平手政秀は次席家老であり、濃姫との婚姻を取り仕切った有能な家臣でありましたが信長を諌める為に自害しました。
信長は表面的な付き合いや若殿と扱われてかしずかれた窮屈な武士生活よりも、自由で闊達な日常を楽しむ事を好んだ様です。そこでは自力で思考する訓練が培われて、天性の独創性・創造力はこのような環境で育まれ、その後の半生で存分に発揮されたました。
但し、他の兄弟をお館様として担ぐお家騒動からその一派を粛清する経験を踏まえ猜疑心の強い性格が天下統一の最終段階でも明石光秀に謀反を起こされてしまう、人徳の限界があった様です。

②豊臣秀吉:1537年、尾張の貧農の長男として生まれましたが3才時に父親は従軍した際に受けた傷がもとで病死しています。その後母は再婚しましたが義父は秀吉を虐待したので8才の時、寺に入れられてしまいます。その後は寺を追い出され、蜂須賀小六に一時、召し抱えられたり、また今川家の家臣に使えた時もありました。
しかし長続きせず、遂に15才の時、今度は今川家に敵対する織田家に仕官することにしました。その理由は知られていませんが駿河から尾張に於いて最大勢力今川家ではなく、織田家に繋がったのは運命的に引き寄せられた様に感じます。
信長は家督を相続した直後だけに勢力拡大の為、有能な家臣を探していたので両者は引き付け合うようにして出会いました。

③徳川家康:秀吉誕生から5年後、信長誕生からは8年後の1542年に三河の徳川家嫡子として誕生、幼名を竹千代としました。
その時代は東を今川義元いて、西を織田信長の父信秀に岡崎を攻められた時で、家康の父松平広忠は今川に援護を求めました。その見返りに人質を要求され6才の嫡子竹千代は今川に護送される所をその責任者が織田家に売飛ばしてしまい8才まで織田家の人質になりました。
織田家は人質竹千代を使い父広忠に織田側に付くように説得しましたが広忠は「人質を殺したければ殺せ、一度交わした今川との約束は破れない」と返答しました。それに対して織田信秀は「あっぱれ!」と息子を犠牲にしても信義を守る態度に感服しました。でも息子竹千代は命拾い、危機一髪です。
その後、竹千代は今川の人質になっても脱出して信長と連携して2万5千の大軍今川義元に戦いを挑みました。この桶狭間の戦いでわずか5千の信長軍が奇跡的に勝利出来たことで彼の名声は全国に知れ渡りました。
その一方で19才の竹千代は今川の脅威から開放され、名を後に徳川家康に改名して有能な戦国大名の地固めをスタートしました。
この時に始まった織田信長との同盟は同等ではなく8才年上の兄が自分中心に常に弟家康に指示を与える主従関係に近いもで、信長が49才で本能寺の変で急死するまで変わりませんでした。つまり父親譲りの、忠義心を持ち、盟友・家臣達を信頼し他からも信頼された人物です。

◆3人の幼少時から生立ちで培われた性格とその生涯と死後の関係◆

①織田信長:幼少より若君として物理的には何も不自由を感じること無く育ち、更に異母兄弟と周囲にお家騒動から最も信頼しやすく兄弟からも裏切りを知り人への不信、猜疑心が強い人物となった。彼は身内は勿論、家臣でも有能な人物には登用のチャンスを与え重用しました。他方、有能にあらずと見抜くと使い捨てる傾向でした。
一方で自分を「うつけ者」に見せておいて、相手に油断をさせたり、既成概念にとらわれない発想と行動をする自由を確保した故に当時の戦国大名としての枠に縛られない行動ができました。
例えば洛中楽座(経済の自由化による活発化と特定業者に限らない経済活動の発展)、 鉄砲隊の連署戦法(代々訓練された武家一門の特殊能力が無くても、短期間の訓練で戦場の主力舞台を作れる事を証明)、 有能な人物は家柄等に関係なく抜擢、登用(織田家の家臣は古参でも実力がないと用いられず、家臣たちは最後は失脚させられる不安と恐怖を抱く)

②豊臣秀吉:幼少期、3人の中で彼ほど貧しく明日をも知れない乞食の様な生活をしたものはないでしょう。愛情は8才で義父から受けた虐待、母親・兄弟との愛情も共に生活できなかっらので不安定で欠乏した状態、その分異常なほど人懐こく、異性への執着も異常な程、強く抑制できなかった。
義理父や兄弟と十分な家族愛を育む事が出来なかったので愛情にむらと偏りがある性格から例えば、朝鮮出兵・キリシタン狩り・甥秀次一門の惨殺、生涯に300人近い女性と関係を持った、特に茶々との愛憎は有名です。

③徳川家康:6才から桶狭間の戦い前の18才位までは人質生活でした。当然、父母・兄弟と共に生活して人としても愛情が育まれたかといえば、人を平等非常に難しかったと思います。
父親からは間接的ながら「義のためには息子・人質を殺されていも良い」と言われるながらも、その後の半生で聞く家康は3人の中では最も人格者です。賢くも、努力、人を見る目、家臣からの人望がなかれば徳川300年の礎を築く基盤は出来なかったと思われます。
6才からの人質生活前に父母や教育係の家臣達から愛情を注がれ、かつ溺愛でない情愛で養育されたものと推察され、その時の土台・三つ子の魂が約12年間の幼少から青年期の多感な時期でも屈折し歪み易い人間にならず、むしろ忍耐強く、弱い立場や広角に人間関係を見られ人に成長したと思われます。

◆まとめ◆

3人共に天下人になれる人物です。それは先見性・軍事力の采配・経済力が卓越していました。一方で誕生から幼少時・青年期に於いての人格的な面では明らかに異なる為に、死に方とその後に天地の差が生じました。
●織田信長は家臣を愛情深く接することが出来ず、超能力主義で扱った為、家臣明智光秀を筆頭に恨まれて殺害、その仇討をした秀吉も織田家の再興を装っても実はカモフラージュで、重用した秀吉達家臣を死しても主従関係に留めておける不動の織田軍団は構築できんませんでした。
●豊臣秀吉は信長よりも愛情深く家臣に接した結果、表面上は彼の死後も豊臣家は天下を確保・維持できました。しかし彼の死後わずか2年の1600年関ヶ原の戦い豊臣家の基盤は半壊、そして彼の遺訓であった息子豊臣秀頼の基盤も更に15年後の1615年大阪夏の陣で全壊しました。
徳川家康は6才より18才までの12年間は屈辱の人質人生でした。いつ殺されるか解らない不自由な多感な青年期をひねくれずに超えられたのは6才前の養育がしっかりしていたと思われます。それらの経験から彼は家臣達を平等に扱い裏切らない、それは同盟関係を結んだ他の大名達にも言えます。更に公家・武家達の様な最高権力者・支配的人々もがその時の気分ではなく法による平等に従う仕組みにした事が徳川250年の礎になったと思われます。 

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