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秀吉は甥の関白秀次に不信して最後は秀次を切腹、一族も全員を処刑した

      2017/03/03

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秀吉の嫡子鶴松が3才たらずで病死した後、朝鮮出兵も当初は順調であったが進軍して韓半島の半分程まで進行した頃、中国明軍も参戦、日本軍は苦戦していた事等、八方塞がりの時であった。

茶々は再度嫡子を生み名前を幼名捨後の秀頼を産んだ。秀吉と茶々は再度日々が希望を託する我が子が与えられ異常な程、溺愛した。
しかし秀頼の誕生から、秀吉の後継人として託された関白秀次とおじ秀吉は互いに不信を抱きいだき始め、やがて気持ちのすれ違いが生じて、遂には二人の溝は深まり想像を絶する決定的な修復不能な歪みをもたらす、今回はその軌跡を辿ってみました。

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今回のポイント不信からすれ違い、そして深まる溝
(豊臣家は呪われた如く、人間関係が徐々に崩壊していく)

相関図0703

相関図(詳細はここから

1.茶々が再度、嫡子を産むことにより秀吉と甥秀次は不信を抱くようになる

 秀吉の子が誕生したことで、秀次はおじ秀吉から近い将来必ず自分は厄介者扱いされる、強い先入観・被害妄想取り付かれていた。

そもそも甥秀次は気の小さい男の典型の様な人物、なので本人も認めている様に関白に相応しくなく、豊臣家の頭目になるべき人ではなかった。もしどうしてもその立場に置くのであれば周りが最大限の気を使い補佐する体制を整えるべきであった。

2.不信は互いの行動にすれ違い生み

 秀次は秀吉に認めてもらうべく秀吉の好きな能面を習得して見てもらいお褒めの言葉を期待した。しかし、秀吉は上手く踊った秀次に予想外の事を言う、「そんなものに一生懸命になり、もっと関白としての大事な仕事に専念せよ」、秀次の思いと努力は秀吉に通じなくなっていた。

秀吉の本妻、北の政所様は秀次の窮地を救うべく「秀次、貴方はどうどうとしていればいい、秀吉もそれを期待している」というのであったが、その言葉は一時の癒やしにはなったが、秀次は17才の若さで病死した弟秀保の葬儀はおろか見送りもするなという秀吉の通達が縁起担ぎからの事としではなき、不信する思いから「やっぱり、おじは我らを使い捨てる」と強く誤解してしまう。

真田信幸(兄)と信繁(弟)の関係も以前から兄が弟の兄に気を使っている事が感謝するどころか、兄として弟に気を使ってもらうことでプライドが傷ついて弟に強い不満をいだいていた。
今回、秀吉が信繁に官位を授ける事を提案すると初め兄を差し置いて受けられませんと辞退するも結局兄と一緒に官位を貰えることになるが後日、その経緯を知って兄信幸は信繁に不満と怒りとぶつける。小さい兄です。

3.すれ違いで溝は深まるのみ

隠居した秀吉ではあるが秀次の重責を少しでも軽減してあげようという思いつたえないまま、その改造見取り図を秀次は秀吉の真意を知らずに見て、いよいよ自分の仕事と立場を取り上げようとしていると誤解していまう。彼は不安で当たらなかった。

追い打ちを加えた茶々と三成の陰謀で秀次は切腹、一族全員(女・子供まで)も処刑

1.何故に秀吉は秀次一門全員(女・子ども)を極刑にしたのか?秀次が極刑にされた理由に2つの説があります。

その1つ目は
次は殺生関白と言われる程、酷く残忍でどうしょうもない人間なので、その報いとして当然の処分を受けたと言う説です。その裏付けとなる書物・語り伝えが残っています。
但し、そうだとしても昔といえ何故その親族全員を根絶やしにしたのか?彼の正妻、側室とその子供達までも1才から68才、合計39人です。これは理解しがたい事です。

二つ目は秀吉は思いがけない秀頼の誕生により甥秀次に渡した天下・関白の座を取り戻さねがならないと感じ、楽観的にみれば秀次は野心家でもなく、既に自分の分をわきまえて秀頼の元服までを関白として責任を持ちその後は速やかに退く、秀頼に全権を渡すつもりであることを公言していました。

しかし、両者はいつしか、互いに不信してすれ違い、溝か深まった結果、秀吉の死後はまさしく秀次が実質最高権力者でありそれを超えたり止める者はいなくなると想像すいれば、秀吉が先ずにデッチ上げでも良いから適当な刑罰から幽閉・蟄居させるだけだったのかもしれない。そうすれば秀次は権限もなく秀頼が関白になる邪魔をすることはできないので、普通ならこの処分で一件落着でした。
しかし、この処分では甘いというかリスクは残ると思ったのが反秀次派の中心淀君と石田三成達でしょう。
秀次の蟄居だけでは不安なので切腹、更に彼の一族、子供・女性に全員を処刑してこそ、秀頼の渉外物を将来にわたって完全に除去する必要性を感じて、彼らは秀吉にその事を進言して幽閉の次の重い処分、切腹と更に一族も全員処刑を実行してしまう。

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まとめ

1.豊臣秀次が今日のテーマ「不信」の中心であった、次回も含め、彼は悲劇の人として歴史に名を残し、彼の不慮の死は徳川家がいよいよ大黒橋を失った豊臣家を潰しにかかる遠因となってしまうので、その意味は大きい。

2.よく言う様に自分に自身を持てない人、実力が有る無しの前にその人は被害妄想になりやすのかもと秀次を見てて思う。
全ての第一原因は秀吉の人を見る目、接し方それも特に親類縁者。彼がひとたらし、と言われたのは天下人として上り詰めるまでの策士的観点であって家族愛等のレベルではないと思えてし方ない。

3.秀次一族を極刑にしたことは豊臣家が残忍であり世間の人心を失い更に内部分裂の遠因をもたらし、およそ5年後の関ヶ原の戦いにおける豊臣方西軍の分裂として明確に現れる。歴史は原因の上に結果が生じることを示しています。  

 

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