タフオ

Just another WordPress site

*

瓜売り、秀吉は朝鮮出兵から仮装大会まで、ますます人心を掴めず

      2017/03/03

Pocket

スポンサーリンク

第26回真田丸「瓜売」:秀吉は天下人としての期待と愛情を注いだ茶々の産んだ嫡子鶴松注いだが、報われず病死によって我が子は3才にして逝ってしまった。そして意気消沈したがその反動のように今度は、天下統一により使い道が無くなった各大名達の武力に次の仕事、朝鮮・明への出兵を命じた。その戦いは初戦こそ破竹の勢いだったが、徐々に苦戦を強いられ出口の見えない迷走を始めた。そして秀吉は戦意発揚、気晴らしに仮装大会を発案、自らも下手な「瓜売の仮装芸」で出場したが、それが一位となってしまう?世の中、全てが秀吉の思惑で通りでに進められる事への不条理を感じる家臣達、特に徳川家康・真田昌幸らは不満が膨らんでいった。

相関図:詳細はここから

相関図0703

今日の見所と私見
①何故、秀吉は朝鮮出兵をしたのか?
最愛の嫡子鶴松の病死により、朝鮮出兵を実行したのではなく、天下統一後は全国の大名達はその武力を発揮できる所が日本国内では無くなった。もしそのままだと大名達の中には、再度天下を狙い豊臣家に反旗をひるがえす勢力になるかもしれない、それを防止するために彼らの力を海外に投入すれば良いと思った様です。

②ここで疑問が1つ、単純に朝鮮出兵を不賛成な有力大名は居なかったのだろうか?
長い戦乱の世が終わり、自国領土の安定と発展の為に殆どの武将は一先ず平和な天下を希望したに違いないと思います。しかしそれを言えるかもしれない大物、例えば徳川家康も言えなかったのでしょう。本来ならば秀吉の側近、石田三成らがその考えを止めるべきであった、その事が豊臣家の為であるし、しいては豊臣家に従う諸大名から歓迎される事であったに違いないが彼らにはその力量・腹は無かった。殆どの場合、秀吉のイエスマン、追従者だった事も豊臣家の短命をもたらした遠因の1つの様に思えます。

スポンサーリンク

③豊臣家の安泰の為に参勤交代の如く諸大名の財力・軍備・人材力を削ぐために出動命令を下した事は何と浅知恵かと思わされる。
察すに、韓半島情勢と明の状態に何の予備知識もなく、更に5~10年程度の中期戦術も無く、秀吉は戦えば勝てた国内戦と同じくらいに思いあなどっていた。戦況は韓半島の中間地点まで攻め上った所で明の軍隊が参戦したので日本軍は特に苦戦した。

④戦況不利の中で、朝鮮半島の戦場に対して日本側の前線基地、名古屋城(現在の佐賀県唐津市)にて秀吉は指揮を高めるため仮装大会の祭りを発案する。
自分の命によって海を隔てた直ぐ向こうでは味方が苦戦しているのを知りながら、その改善に全軍の努力・意識投入をしないで、自分の気分転換の為に呑気な仮装大会を開く神経は「全軍の最高責任者にあらず」といえる程、明らかであった。それもで誰もその流れを止められず祭りは行われた。
そして自らも「瓜売」の芸で参加した。たまたまその芸は真田昌幸も行う予定であったが秀吉よりも上手であること故に秀吉家臣片桐らによって参加を辞退させられた。案の定、仮装大会は秀吉のうまくもない「瓜売」が一位となってめでたしめでたしで終わった。しかし、この件でも徳川家康・真田昌幸らは朝鮮出兵等、秀吉の独断先行、一人舞台に付き合わされる不満が募った。その不満はいつしか豊臣政権打倒への地盤として成長して行く事を秀吉はもちろん石田達の側近は予知出来なかった。人心(部下と民衆の思い)を理解できない政権は滅びの道を進むしかなかた。  完

 

 

スポンサーリンク

 - 芸能