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千利休の呪いは一番ダメージになる秀吉の嫡子鶴松との別離に及ぶ?

      2017/03/03

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第25回真田丸「別離」6月26日:北条の滅亡により秀吉の天下統一は完成した。しかし秀吉はそのことに満足していられる時は長く続かなかった。それは茶々の産んだ嫡子鶴松が3才を迎える前に大病を患ったから。その原因は秀吉により切腹させられた千利休のたたりだという噂が広く伝わった。また徳川家康は豊臣家の嫡子にもしものことがあれば豊臣家の時代は長く続かない可能性を思い始めていた。そして鶴松は秀吉・茶々達の願いもむなしく逝ってしまった。この事は豊臣時代の行き先に大きな不安を与え、秀吉後の天下人に新しき可能性を思わせるきっかけとなった。

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相関図
相関図19
今回のポイントとまとめ
天下統一を果たしても豊臣家は嫡子を失い、その将来が危ぶまれた。一族の中心的メンバーは石田三成の呼びかけに豊臣秀次を中心として宇喜多秀家や豊臣秀俊(のちの小早川秀秋)そして豊臣秀勝、豊臣秀保達は一族の団結を誓う。彼らの皆、大名クラスの高い地位を得ていたが代々の武将達ではなく、天下人まで上り詰めた出世頭・秀吉の恩恵を無条件的に得られた立場、内実は乏しい者達であった。豊臣家で最も頼れる人徳ある人物は秀吉の弟秀長であったが残念ながら病にて千利休を失脚させる様に兄秀吉に進言したのを最後にその後の豊臣家に振りかかる難題を知らずに兄より約7年早く逝ってしまった。
もしも彼が秀吉没後も家康程に長生きしていれば関が原の戦い、ましてや大阪冬の陣・夏の陣は無く、豊臣家は数代は続いたと思われるます。彼ら3人の生誕と享年、寿命が微妙です。
参考:豊臣秀吉1537年~1598年(61才)、秀長1540年~1591年(51才)、徳川家康1543年~1613年(73才)

②千利休自害の経過(1922年~1591年・69才):
千利休は堺の魚問屋の跡取りでしたが16才より茶道を学び23才で茶会を開くまでなりました。一方尾張(名古屋)からのし上がった織田信長は財力と鉄砲等の武器の町として堺を直轄として重用します。その際に堺とのパイプをより堅固にする為、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用しました。

そして信長亡き後、特に利休は秀吉と共に成長して気づけば天下人に近くで例えば「北条を撃つべし」とアドバイスできる程に実力を付けました。それは秀吉の側近・石田三成達をも超える程であったと思われます。また堺の特産品ともいえる鉄砲を始めとする武器販売を全国の有力大名相手にしていた事を今回の真田丸はハッキリと紹介しています。
日頃から千利休を煙たく思っていた三成達は信繁が北条の武器庫でみた利休の屋号魚のマークから利休が敵に通じて商売をしていた事、大徳寺に寄贈した利休の木像は天下人をも眼下に見下ろしたとするこじつけで蟄居そして切腹に追いやりました。千利休は秀吉にすれば自分が生前、絶対視していた主人信長の茶人ゆえに最初の出会いは利休の方が立場的に圧倒的に上だった、それに年齢も一回り以上(15才)年上でした。
利休は自分が出すぎたまねをすれば危ないことは本能寺の件等で十分体感していたと思われますがそれもで石田三成達からの攻撃をかわすことが出来なかった様です。日本文化には「出る釘は打たれる」という格言があります。信繁が利休に尋ねて曰く、「なぜ敵とも商売、また大徳寺の自身の木造を寄進して誤解されるような事されたのですか?」利休は「全ては定めです」と答え多くを語りませんでした。
現代ならば裁判も有り、反論する機会も与えられて、自害命令も変更できる感じですが、当時はそれがかなわなかった。彼は今更弁明しても、無駄と思ったのでしょう。もし茶々に頼めていれば秀吉は命までは取らなかったと思います。そういう意味では彼の人脈も限界があったのか、「潔し良く」が彼の信条だったのか?彼の野望はなんだったのか?呆気無い人生の幕引きと思われてなりません。

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③秀次の決断:秀吉の後継者として重責を担う覚悟
秀次は
秀吉の嫡子、鶴松の様態が望み薄の時に三成から豊臣家の結束の中心としての自覚を願われた次期関白候補者、詰まり秀吉の天下人後継者は秀次と豊臣家一門と家臣達から念をおされた立場です。既に彼が野心家でなく関白になる前から自分には役が重く出来れば辞退したがっていた人物です。運命は皮肉にもその彼が仕方なく最高責任者を務める覚悟をする為に、支えてくれる人として以前より慕っていた侍女きりに告白しました。
この2年後に再度秀吉の嫡子となる秀頼が誕生した。再度もしもの仮説を許して頂ければ、秀頼が誕生しなければ豊臣の世は数代は続いたのではないでしょうか?堅実な秀次が次期継承者にバトンタッチできたとすれば茶々・三成の蛇行路線とは違った道を辿ったように思えます。とにかく秀次の今後は実に哀れです。そこから何を学ぶか、今でも問われます。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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