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北条氏政は過去に、伊達正宗は未来に生きた違い、トップの責任は重大

      2017/03/03

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第24回「滅亡」6月19日:信繁(堺雅人)は沼田裁定で互いを認め合った本多正信(近藤正臣)と板部岡江雪斎(山西惇)から氏政(高嶋政伸)に降服するように説得を依頼されたが容易ではなかった。そこで徳川家康(内野聖陽)・上杉景勝(遠藤憲一)・真田昌幸(草刈正雄)らは領地争いでしのぎを削った戦勇として秀吉に命乞いを勧める。それに対して名家の誇り・プライドに縛られている氏政の決断は?

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相関図(詳しはここより)
相関図19
今回のポイント
①期待はずれ、伊達政宗は秀吉に完全服従:秀吉の天下取りに不満を持っているのは北条氏政だけではなかった、真田昌幸・上杉景勝そして家康も一方的に領地移動させられるなどこの三者、それぞれ秀吉に不満があったようです。しかし彼らが反秀吉の旗頭として期待した、勇猛果敢で噂の伊達政宗は秀吉に気に入れられようと東北名物の餅作りを実演してみせただけだった。その姿は反秀吉の中心人物にはとても見えずがっかりした。彼は生き延びる事だけを考えた、そして成功した。もし北条が早く降参していたら秀吉は伊達を取り潰す予定だった様子、命拾いした伊達正宗。対象的に北条は過去の栄光に溺れ、生き延びた大名は未来に希望を託したようです。
伊達政宗②信繁 対 氏政:依頼された氏政の説得、敵地の小田原城に潜入して氏政に接見するだけでも命がけであった、戦いの犠牲を最小限にする談判、氏政にすれば自分を散々に悩ませた真田のこせがれが説得に来るとは「いい度胸、殺してしまえ!」の思いであったに違いない。さすが信繁、自分の身が危なにもかかわらず、氏政に「今こそ、生きて下さい!」と迫るが・・・。その後、戦勇の徳川家康・上杉景勝・真田昌幸も氏政の説得を試みるがもはや彼の意志は決定していた、あの世で戦勇達の生き様を見させてもらうと。
信繁と氏政

③石田三成は忍城の攻防で大苦戦そこで:わずか4日間もあれば水攻めで忍城は落とせると豪語したが、何度も夜陰に堤防を決壊されて勝敗はつかなかった、既に小田原城が陥落していることを知りながら、その事実を三成は受け止めれなかった、戦いは机上の話と違っていた。見かねた真田昌幸が「卑怯な手ながら3日もあれば城を開城させてみせる」と言った。三成は卑怯な手段は嫌いながら時間の無駄、戦いを一刻も早く終わらせたかったので昌幸に一任した。氏政が命乞いをして生き延びと言う「うわさと氏政の無血の兜」を見せた。そして忍城は簡単に陥落した。遂に北条家は完全に滅亡して豊臣家に天下統一は完成した。忍城の攻防

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まとめ:
改めて北条家の滅亡原因を考察するに、隠居の身である氏政が古い感性と情報・常識に基づいての決断と指示に北条家が振り回されてしまったことと思います。古いリーダーはこれ以上の苦労・恥は避けたい、見苦しい、よって店を閉じ、倒産、自決等の早く終る一見して安易な道を選びがちです。トップリーダーは過去の歴史、教訓を体験し熟知しながらも先見性・未来志向が無ければならない。

②1590年7月11日北条氏政はあの世でさぞ悔しがったろう「生きていれば」次項の展開を地上に生きていればどうだったろう。
秀吉の跡目鶴松の死より豊臣家の跡目問題はこじれる、朝鮮出兵、氏政没後8年の1598年に秀吉の死、更に秀吉の実質後継人の石田三成の人望が乏しくその2年後の1600年には関ヶ原の戦い、家康の野心は1615年大阪城の冬夏の陣で達成される。
「本能寺の変」で悟るべきであった、「ピンチの後にチャンスあり」、これは誰にも今日にも当てはまります、忘れるべからず! 

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